10月16日にさくらホールで「阿恵官衙遺跡 国指定記念シンポジウム」が行われ、遺跡の紹介、基調講演、事例報告そしてシンポジウム「阿恵官衙遺跡の将来を考える」がありました。
遺跡発掘の報告や学術的意義などは今まで何度も聞いていましたし、「遺跡保存活用計画」の発表もありましたのである程度はわかっていたつもりでしたが、こうやってまとめられると、この遺跡の本当のすごさを再確認させられ,驚いています。
糟屋評造(かすやのこおりのみやつこ)という役職で「つきしねのむらじ廣國」という名前の方の存在は知られていました。その彼が作らせた梵鐘が京都妙心寺にあることも、その内側に記されている文字でわかっています。
ところが、発注者が明らかになっているものとしては国内最古の、この梵鐘を作らせた、長官の勤めていた役所の所在は長い間不明でした。
平成25~28年の九大農場跡地の発掘調査で、政庁と正倉、また、新たな古代道路の発見までありましたが、この阿恵官衙遺跡こそ、その「糟屋評」の政庁だったということが分かったのです。下の図は、九大農場跡地の発掘現場です。
飛鳥時代から奈良時代にかけて作られた糟屋郡の政庁跡、九大農学部の農場があったことで乱開発を免れたようです。
会場は感染対策のために、左右の席は空席とされましたが、全席埋まり、歴史好きのシニア世代が多く、皆さんとても熱心に聞いておられました。
国指定を受けた記念のシンポジウム、当初は令和2年に開催予定だったとのことですが、今回の開催で、関係者の皆さんはほっとされていることでしょう。
保存活用を進める新しい一歩になりました。
下の図は1年半前の議会議員の選挙の時に私が作った遺跡公園のイメージ図です。遺跡公園にはガイダンス施設を作らなければならないので、それを拡大して「住民交流センターを」というのが私の公約です。
現代の「つきしねのむらじ廣國」さんから糟屋の歴史をいろいろ説明してもらえ、気軽に訪れることのできる、いつも子どもたちの遊び声が聞こえる遺跡公園に、というのが願いです。