11日のこのブログで戦争の生き残りであることをなぜ恥じるのか、なぜ投降して捕虜になるくらいなら死んだ方がましと自決されたのか不明だと書きましたが、少しわかったことがあるので紹介します。「戦陣訓」に一つの手がかりがありました。この写真は札幌市バーチャル平和資料館のもので、札幌市相澤祥子氏提供とあります。
この戦陣訓の中に「生きて捕囚の辱めを受けず」という言葉があり、その教えを徹底的に畳み込まれた軍人や軍属の存在により多くの人が自決、自死、または死を強要されたようです。
東条英機による戦陣訓ということが一般的に言われますが、この軍人の行動規範が生まれるまでには様々の説があるようで、ウィキペディアによると、結果的に時の陸軍大臣であった東条英機によって発布された、ということのようです。
第2次世界大戦で亡くなった日本人310万人の中には終戦前後に亡くなった方人が多いと聞いています。ということは戦場での闘いだけでなく、飢えと病気と、そしてこの行動規範による縛りで亡くなった方が多いのではと推測されます。
もしかしたら落とさなくてもよかった「命」、残念でたまりません。
2018年6月10日付け西日本新聞の「時代の斜め読み」というコラムに永田健氏が、「大脱走」と「ひめゆりの塔」という2つの映画を比較して、捕虜に対する考え方の相違をこの「戦陣訓」引き合いに出して説明されています。とても興味深いので紹介します。少し長いですがわかりやすいのでクリックしてみてください。こちら →
また併せてウィキペディアの「戦陣訓」も紹介します。こちら → 更に長い文章ですが、このウィキペディアの記述の最後の方に真実があるような気がしているのでそこを引用します。
当時の陸海軍の軍法においては、「敵ニ奔リタル者」を罰する逃亡罪[31]や、指揮官が部隊を率いて投降することを罰する辱職罪の規定[32]が存在した。他方、捕虜となることそのものを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在せず、軍法において捕虜となる権利が否定されることは無かった。事実、当時の大日本帝国憲法下の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。
しかし、戦陣訓は勅命と解釈されたため、立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることが明白であったにもかかわらず、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われた。 このため、戦陣訓が一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であったにもかかわらず、当時の軍部にはそのような法制度の認識は無かった。結果、捕虜交換などによって捕虜となった者が帰ってきても、軍法会議は一切開かれることは無く、軍の判断によって自決が強要されたり、スパイ容疑をかけられたり、軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜は相当な数に上った[要出典]。
今日は終戦記念日ですが、韓国では独立記念日となっています。初めてそのことを聞いたときは意外に思われましたが、よく考えればそうです。私たちは太平洋戦争でのアメリカとの関係ばかりを重視し、原爆投下の被害者として受け止めていますが、お隣の韓国では日本の植民地支配が終わった解放を記念する日なのでした。
戦後74年経った今でも東南アジアや日本軍の戦場となった場所での遺骨収集、シベリア抑留についてなど多くの課題が残っている日本の戦後処理。平和を貫くために何から手を付けて良いかわかりませんが、今日15日を命の尊さを学ぶ日にしたいと思っています。
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