教育委員会、粕屋町の場合

 広島県府中町の中学3年生の自殺関連のニュースでは、驚かざるを得ない状況が次から次へと明るみに出ている。過去の子どもの自殺からの教訓が学校現場で活かされず、同じような立場に追い込まれた子どもは死を選ばざるを得ない状況が続いている。

 

 家庭でも学校でも1対1では大人は権力者、子どもはその中で大人に従わなければ生きていけないから大人に従う。従うことができなくなったら死を選ぶのだ、というより絶望するのだと思う。その世界でしか自分の生きる道がないと思っている、思わされているからだ。

 

 別の見方、別のやり方、大人だって間違う、子どもにそれを言う権利があるということを子どもは知らない、知っていても言えない、なぜならその庇護のもとでしか生きていけないことがわかっているから。

 

 じゃー、粕屋町はどうなの、大丈夫なの?とすぐに考えてしまう。「指導死」、大人のパワハラだ。

 

 粕屋町の教育委員会の中で似たような状況があったことを私は直接知っている。その時は保護者が子どもの立場で行動してくれたから、その子どもは助かった。保護者が切実な思いでわたしに訴えてくれ、私もそれに対応することができた。けれども壁は厚かった。なかなか問題の本質が明確にならないし、明確にすることを避ける、というより権力で向かってくるから、問題があると認識にしてくれるようになるには半年以上の時が必要だった。直接の担当者が変わったことも幸いしたと思う。

 

 私は教育長に厳しいと思う。議場での一般質問のやり取りでそれを感じ、ブロッコリー通信でも書いているが、問題をすり替えられるのだ。それがわかってやっておられるのか、わからなくてされるのか、今のわたしにはわからない。これも今後半年以上の時がいるのだろうか?